love is over

ストライクウィッチーズに尋常ではないはまり方をしている気がします。
アニメ単体でも、確かにそれだけで十二分にツボをついてくるようなものでしたが、それでもここまで引き込むことはなかったに違いありません。
げに恐るべきはコミュニティの威力。車座になって談笑する、その輪に加わりたいという欲求は不可解なものではないはずです。
ただそれについて語り、想像し、妄想することが期待値をとにかく引き上げて頭を馬鹿にします。最近は大人しめな印象がありますが、一時期廃人製造機の代名詞的な位置づけでもあったネトゲにも共通するところがあります。
もはやここまでくるとある種恋に落ちたようなもので、俗に言う信者と呼ばれるような状態にまでなります。
それは一種の中毒症状すら伴うもので、いくら話題がループしていようとそこにコミュニティがある限り集い、目新しいものが現れると飢えた狼のように喰らいつきます。それは末期になると己の居ない間に、目新しいものがあるのではないかと不安感すら呼び起こすほどです。


信者化して中毒状態に陥っていると、この状態は非常に幸福度が高いので何も問題はありません。
ですが真の問題は言わずもがな、そこにあります。
ひとつの事が頭の容量を98%くらい使っていて、問題がないわけがない。日常的に必須な事を除いて(時にはその分野まで侵食して)、他のあらゆる事項を蹴散らし最優先事項へとのし上がってきます。
僕の頭も幸福感で満たされる一方で、最大級のアラートをがんがんに鳴らしています。
好きでいることはかまわないが、依存度を半分程度に抑えろ、と。


そしてアラートをがんがんに鳴らして恐れるのは、純然たる中毒症状を恐れるばかりではありません。
僕も僕自身とそれなりの長さの付き合いをしているので、よく判っていることがあります。熱しやすく冷めやすいという習性です。
のめりこむときは上記のように心底、全力でのめり込む割に、何らかのきっかけで脳の容量が他に割かれて関心をなくし始めると、軍が施設を破壊しながら撤退していくかのように、何も残らなくなるほどあっさり興味を失います。そうなると最後、その話題が出てもたまに反応する程度で、本当にそこまで好きだったのかと疑わざるをえないほど。
これがオタに通じる共通項だとは思いませんが、「熱しやすく冷めやすい」という習性を持った人なら、似たような感覚を割と覚えのある人がいるかもしれません。
廃人を脱した後で、自分の中毒状態を思い返して懐かしんだり軽蔑したり、後悔したりするような状態。
この温度差の恐ろしさ! 僕は過剰なくらいに心配性な部分があるので、先の終焉まで想像してしまい、時に刹那的な考えでアラートすら遮断してしまいます。
飽きるときのあの感覚は本当に恐ろしいものがあります。今まで住んでいた家が目の前で焼け落ちようとしているのに、自分の手にはバケツ一杯分の水すらないような絶望的とも呼べる感覚です。
急速な死より、せめてゆるやかな死を模索せねばなりません。
何が引き金となるかは判りませんが、できることと言えば脳の占有度を中和することくらいです。
その方法は、別のものをむりやり叩き込むこと。他の刺激をいれつつ、接触時間の減少を図ります。ただ距離を置こうとするだけでは無駄に中毒症状を煽るだけです。それでも手持ち無沙汰になると、呼び声が聞こえてくるのです。


理想的なのはほどほどの距離感。
盲信に近いほどのめりこんでいるわけではないが、口を大にして好きと言える、そんな距離感。
のめりこみすぎると、二次創作に走るにしても愛が過剰すぎてまともではなくなります。
作品としての全体像を見失わず、ちょっとした楽しみ程度に。そんな感じが一番いい。と僕は思う。
僕の中では夏目友人帳がそんな感じです。
ストライクウィッチーズは、そう、盛り上がりすぎたんだ。
いずれにせよ来週で終わる。区切りがつく。終わる。